全国戦没者追悼式

全国戦没者追悼式は昭和27年4月8日の閣議決定により、同年5月2日に新宿御苑で昭和天皇・香淳皇后の臨席のもとで行われたのが最初である。
第2回は昭和34年3月28日にやや変則的に実施され、その後昭和38年に日比谷公会堂で8月15日に、昭和39年には靖国神社で8月15日に開催。
翌昭和40年から日本武道館にて8月15日に行われるようになり、現在に至っている。
追悼の対象は第二次世界大戦で戦死した旧日本軍軍人・軍属約230万人と、空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約80万人である。
式場正面には「全国戦没者之霊」と書かれた白木の柱が置かれる。

ユダヤ人

「ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々」という定義は古代・中世にはあてはまるが、近世以降ではキリスト教に改宗したユダヤ人も無神論者のユダヤ人も「ユダヤ人」と呼ばれることが多い。なお、イスラエル国内においてユダヤ教を信仰していない者は、イスラエル人である。
帰還法では「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」をユダヤ人として定義している。
また、ユダヤ人社会内やイスラエル国内においては、「ユダヤ人の母を持つ者」をユダヤ人と呼ぶのに対し、ヨーロッパなどでは、母がユダヤ人でなくともユダヤ人の血統を持った者もユダヤ人として扱うことが多い。

イサム・ノグチ

1941年、第二次世界大戦勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際に自らアリゾナ州の「日系人強制収容所」に志願拘留された。
しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂がたち、日本人社会から冷遇された為、自ら収容所からの出所を希望するも今度は日本人であるとして出所はできなかった。
彼は後に芸術家仲間フランク・ロイド・ライトらの嘆願書により出所、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。

アルフォンソ12世

1879年11月29日、遠縁にあたるカール・フェルディナント大公の娘マリア・クリスティーナと結婚した。
3子が生まれた。
長男のアルフォンソ13世はアルフォンソ12世が崩御後に生まれている。
崩御当時はマリア・クリスティーナ王妃のお腹の中の子供の性別が分からず、胎児の生誕までは一旦王位を空位とした上で、長女マリア王女が暫定的な継承権1位の立場につき、生誕した赤子が男児ならその子が直ちに国王に、女児なら長女マリア王女が国王となるように処置がとられた。

NHK福島放送局

コールサインが先に与えられた所は県都・福島市よりも人口が多い郡山市の郡山放送局であったが、開局はほぼ同時であった。
このため、福島市が宮城県境地帯にあることから、ラジオ第1の出力は郡山の方が大きく、ラジオ第2も過去100Wで放送されていた時期があった。
その後郡山局はいわき放送局と共に支局化され、配下に置いている。
東日本大震災と、それによる東京電力福島第一原子力発電所事故以降は、制作される番組が報道と生活情報番組に限られるようになり、原発事故で大きな痛手を負った福島県民の生活再建に向けた支援を放送を通じて行っている。
また大河ドラマ『八重の桜』放送にあたっては、ご当地放送局として大いに盛り上げた。

オスカーワイルドのブラック

オスカーワイルドは、「私は天国に行きたくない。私の友人は誰もそこにいないだろうから」と言っている。
ブラックな発言だ。
彼は1881年暮に出航し、翌年暮までアメリカ各地で講演をして稼ぎ、また、ロングフェロー、オリヴァー・ホームズ、ホイットマンと知り合った。
アメリカ行きは、彼の派手すぎる芸術家気取りと身なりが遠因で、それをからかうウィリアム・ギルバート/アーサー・サリヴァンのサヴォイ・オペラ、『忍耐、又はバンソーンの花嫁』がイギリスで当たり、それをニューヨークで再演する前宣伝に、招かれたという。

ネルソンマンデラ

南アフリカ共和国の政治家であり、反アパルトヘイトの活動家だったネルソンマンデラ。
1960年代に国家反逆罪で逮捕され、27年間の投獄生活を送る。
釈放後は、アフリカ民族会議(ANC)の副議長→議長をつとめ、1993年にノーベル平和賞を受賞。
翌94年の4月、南アフリカ初の全人種参加選挙にて、第8代の大統領に就任した。
マンデラ語録には、人間の弱さをまず認め、その上でそれを克服していく事の大切さを説いたものが多い。
生きるうえで最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。
転ぶたびに起き上がり続けることにあるとか、勇者とは怖れを知らない人間ではなく、怖れを克服する人間のことなのだという名言がある。

各地のことわざ

世界各地にことわざは存在する。
ユダヤには、「幸せとは香水のようなもの。他人にふりかければ、おのずと自分にも数滴かかる」ということわざがある。
数滴、というのが奥ゆかしくて良いと思う。
フィンランドには、「楽しい人には草も花、いじけた人には花も草」というのがある。
見方によって同じものが全く違った意味を持ってくるという事だろう。

アンドレイ・マルコフ

アンドレイ・アンドレエヴィチ・マルコフは、リャザンの森林管理局長を勤めていたアンドレイ・グリゴールヴィチ・マルコフと、その最初の妻であったナジェージダ・ペトローヴナ・マルコワの息子として、リャザンの地で生まれた。
1860年代の初め、父アンドレイ・グリゴールヴィチはサンクトペテルブルクに転居し、王女エカテリーナ・アレクサンドローヴナ・ヴァルヴァチェヴァの資産管理者となった。
マルコフの最初の学校生活は、1866年、サンクトペテルブルク第5グラマースクールに入学した時に始まった。
この頃から既に、彼は高等数学に強い興味を持っていた。
グラマー・スクール在学中の17歳の時に、彼はヴィクトール・ブニャコフスキー、アレクサンドル・コルキン、イェゴール・ゾロタレフといった数学者に対して、線形常微分方程式の全く新しい解法を提案しており、その結果コルキンの学生らが集ういわゆる「コルキンの土曜日」に招待された。
1874年に学校を卒業すると、彼はサンクトペテルブルク大学で物理数学の研究を始めた。

パスハ

ロシア正教会の伝統では、パスハは普通、四角錐形に成型される。
この形は教会の象徴であり、ハリストスの墓を表すとも言われる。
パスハは伝統的に分解して洗うことが可能な「パソチニツァ」と呼ばれる木枠で作られるが、近年では、プラスチックのような近代的な素材の型も使われている。
型には乳精が抜けるように穴が開いている。
バニラやアーモンドエッセンスで香りをつけ、レーズンや果物の砂糖漬けを加えることもある。
作り方は、パスハの材料をよく混ぜ合わせて鍋に入れ、弱火で加熱してからガーゼを敷いた型に詰めて18〜24時間ほど重しをして乳精を抜いて押し固めるものと、加熱せずに型に入れて固めるものの二通りがある。
四角錐の型以外に、シャルロット、クグロフ、テリーヌの型、あるいは洗った花瓶に入れて成型されることもある。